盲目であることが悲惨なのではない。盲目に耐え得ないことが悲惨なのだ

「自分は不幸だ」と感じることはあっても、「不幸とは何ぞや?」という問いに答えることのできる人はほとんどいません。「目が見えない」と不幸なのでしょうか? 「耳が聞こえない」と不幸なのでしょうか? ヘレン・ケラーは、「私は明るい」と言っています。どんなに困難な状況にあったとしても、それが自ら耐え得るものであれば、不幸とは言えないのかも知れません。

盲目であることが悲惨なのではない。盲目に耐え得ないことが悲惨なのだ ~J・ミルトン

17世紀イギリスの詩人ジョン・ミルトンの言葉です。何らかの苦労や困難にであってしまうことは時々あるものです。そうしたときに、事件そのものではなく事件によって起こった心の中に「不幸」がひそんでいると言えるのでしょう。

失恋した時には誰でも悲しくなるものですが、失恋そのものは不幸ではありません。それをいつまでも嘆き悲しんでいることが不幸なのです。まるで牛が反芻(はんすう)するように、辛い気持ちを何度も何度も心の底から引っ張り出して吟味することをくり返し、日々もんもんとして暮らすことほど悲惨なことはありません。「あきらめきれない」というのは、あきらめるべきことをあきらめないことです。脱出のための解決策はただひとつ、あきらめること。

人間に起こるさまざまな不幸は、不幸であると思わなければ不幸ではありません。三重苦をかかえて生まれてきたヘレン・ケラーは「自分は明るい。けれども、世の中は暗い」と語っています。明るいかどうかは、目が見えるかどうかではなく、明るく生きているかどうかなのです。

まだ笑うことができる限り、彼は貧乏ではない ~レーモンド・ヒッチコック

20世紀初め頃の俳優レーモンド・ヒッチコックの言葉です。ひとはさまざまな場面で笑います。腹を抱えて笑うこともあれば、苦笑いや相手を侮蔑して笑うこともあるでしょう。悲しみをごまかすための笑いもあります。どんな笑いにせよ、心の中に少しでもゆとりがないと笑いは起こりません。切羽詰まった状況においては、笑うことは一切できないのです。

自分のおかれている状況にしがみついて離れられないときには笑えません。自分を少しでも客観視して、苦しい状況を一瞬でも忘れることのできるとき、自分の立場にムキにならずに済むときにしか笑うことができないものです。

本気で誰かを好きになし愛を求めて告白しているとき、貧乏のどん底でなんとしても抜け出したいともがいているとき、最後の100円玉をパチンコ台に入れて大逆転をねらっているとき、人は笑うことができません。

とても苦しい状況におちいってしまったときに、自分がまだ笑える状態なのかどうかをチェックしてみると良いでしょう。もし、笑えないのなら、危険な状態です。

どんなに辛いことがあったとしても、自らを「不幸である」と定義するのはまだ早いかも知れません。不幸からの脱出は、自らの意志のあり方で決まります。