わたしたちは他人を品定めするのが好きだが、自分が品定めされるのを好まない

権利意識が強くなった社会では「自由」が強く主張されるようになります。「自由」と「平等」は現代人の2大権利ですが、そこには自らの義務を果たす責任や「他人の権利・自由」を侵してはいけないという掟があるはず。それを忘れた「自由」の主張がまかり通るのが今の世の中なのかもしれません。

マスメディアは「報道の自由」を盾にして、どんなに人を傷つけることであっても、守らなければならない秘密であっても、誰かのプライバシーに関わることであっても、暴露して構わないと主張します。そうした姿勢を真似して、ネット上では、何を表現しても自由だということになってしまいました。そうした現代の風潮に警鐘となるべき言葉がいくつかあります。

言論の自由といっても、満員の劇場で「火事だ!」とわめく権利が与えられているわけではない ~ホームズ

19世紀のアメリカの作家ウェンデル・ホームズの言葉です。「何をやるのも、言うのも自由」というのは、テレビや新聞・雑誌をつくっている人たちがまき散らしたデマではないでしょうか? 「言論の自由」と声高に叫びながら、実際にその自由を活用して叫んでいる内容は、誰かの不倫話やエッチな風俗の紹介だったりします。時には根拠のない、悪口だったりすることもあります。容疑者を犯人扱いして、後で別の真犯人が見つかっても、悪びれもしないというのが、基本的なスタンス。

こうした誤った「自由」の主張が、普通の人たちの「自由」に対する感覚をマヒさせてしまいました。誰かの部屋を盗撮してネットに載せるのも自由、バレなければどんなことをするのも自由。「自由」の蔓延に対して一定の歯止めをかけないと、誰もが裸にされてしまう時代が着てしまうでしょう。

わたしたちは他人を品定めするのが好きだが、自分が品定めされるのを好まない ~ラ・ロシュフーコー

17世紀の貴族・作家であったラ・ロシュフーコーの言葉です。週刊誌が、人の家の軒先に侵入して盗撮し、本当かどうかあやしい下ネタを振りまくのは、それを読んで喜ぶ読者がいるからです。悪事を働いているのは雑誌側だとしても、それを支持しているのは大衆だとも言えます。

人は他人を覗き見して、品定めをするのが大好きです。できることなら寝室にまで忍び込んでどんな性行為をしているのか見て見たいとさえ思います。そこでEDになった男を見つければ、誰かに吹聴したいと思うでしょう。次の晩にはバイアグラで復活したモノを見て、また吹聴したくなるでしょう。「バイアグラはすごいぞー」と。

その一方で、自分は絶対に品定めされたくないと考えます。他人の品定めは「蜜の味」なのに、なぜなのでしょう? 人には自分を品定めできるような能力がないと考えているのでしょうか? 侮辱的だと感じるのでしょうか? バカにされたくないからでしょうか? いずれにしても、自分がして欲しくないことを他人にしているのです。

わたしたちは、「自由」というものに対して、もっと高いモラルを持つべきではないでしょうか。