過去のいろんな困難の想い出はたのしいものだ

過去を客観的に見つめられるようになると、苦しい想い出もたのしいものに変わるものです。もし、まだいい想い出として捉えることが出来ないものがあるとすれば、現在が十分幸せではないのでしょう。

過去のいろんな困難の想いではたのしいものだ ~キケロ

紀元前1世紀のローマの政治家マルクス・トゥッリウス・キケロの言葉です。

お年寄りは昔話が好きなものです。こんな大変なことがあった、こんな苦労があったという話ばかりですが、話し手が苦しそうに話すことはありません。ほとんどの場合が、よい想い出であったかのように話すものです。お年寄りの話をよく聞いていると、たのしかった想い出話はめったにないことにも気が付きます。どうやら、たのしかった想い出よりも苦しかったものの方が、生き生きと思い出されるようです。

苦しみは乗り越えてしまえば、苦しくはなくなるもの。苦しみを乗り越えたその過程にこそ、人生の中の面白味が凝縮されていて、それがゆえにたのしかった経験よりも、苦しかった経験の方が、今は印象深いのでしょう。「もう死んでしまいたい」と思えるほどの困難こそ、後になればもっとも面白いものなのです。

人生の喜びの本質が、実は「苦しみ」の中にあるといえるのではないでしょうか。もしそうであるならば、困難の真っ最中にいて、死にたいほどの苦しみを感じているときには、ぜひ思い出したいものです。今まさに、たのしいことの真っ最中にいるということを。そこに気が付けば、死なずに済むのではないでしょうか。

わたしたちがいかなる過ちも犯さなかったとすれば、他人の中に過ちを見つけ出すことに、これほどの快感を持たないであろう ~ラ・ロシェフーコー

フランスの文学者フランソワ・ド・ラ・ロシュフーコーの言葉です。

他人の過ちを見つけて喜ぶ気持ちは、その瞬間に相手が自分と同類であることに気が付くからでしょう。ともすると、他人は完ぺきのように見えてしまうことがあります。そのため、優秀な人が失敗をするのをみると安心するのです。

人は高いレベルのところで競争し合っているときには、互いに高め合えるものです。有名進学校に子どもを行かせたがる親は、そのことを知っているわけです。才能のある子であれば、熾烈な競争の場に放り込むことで能力をのばし、運がよければレベルの高い高校や大学に入学できます。

逆に、能力の低いところに入ると、お互いに足を引っ張り合うようになります。営業成績の悪いセールスマンは、同僚の中でもできの悪い人と付き合いたがります。自分と同じようにできないところをみて、安心できるからです。売れないもの同士で喫茶店に入ってさぼったり、できる者の悪口を言い合ったりしているととても楽しくなります。

常に営業成績トップの人間は、できない人を見て楽しいとは思いません。他人の失敗をみて喜ぶのは、その人自身が低いレベルであることの証ということもできるでしょう。

人生における喜びとは何か ?楽しみとは何か? 時には考えてみるのもよいのではないでしょうか?